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インタビュー
2021年11月1日

【俳優 矢野浩二氏】チャンスを自ら掴み、続けていくこと 中国で活動20周年を迎える俳優の流儀

【プロフィール】

俳優 矢野浩二(やの・こうじ)氏

1970年東大阪市生まれ。2000年に中国のドラマに初出演。その後、数々の中国ドラマ等に出演し、2007年「ニューズウィーク日本版・世界が尊敬する日本人100人」の一人に選出される。2008年8月から、中国のバラエティー番組『天天向上』にレギュラー司会者の一人として出演。「2010 Awards of the year」で“最優秀外国人俳優賞”を日本人として初めて受賞。2015年8月には日本外務大臣賞を受賞。
中国で活動する日本人俳優の先駆者である矢野浩二氏。
中国のSNS、weibo、TikTok、快手、ビリビリの総フォロワー数は1665万(2021年10/16現在)を超える。11月26日まで開催される「大連泡盛祭り」のPRで大連を訪れた彼に、話を伺った。
 インタビュー記事は本誌P24に掲載!

 お仕事について教えてください。

中国で本格的に俳優活動を初めて今年でちょうど20年になります。2000年にドラマの撮影「永遠の恋人」で初めて中国を訪れました。その翌年2001年に北京へ渡り、中国での俳優活動を始めました。最近は映画やドラマの仕事以外に、SNSや動画サイトで自分のコンテンツの更新もしています。バラエティやグルメ動画、お笑い動画など様々なジャンルに挑戦しています。

 中国に渡る決意をしたきっかけは何だったのですか。

2000年の撮影当時、共演者やスタッフの方に「中国に来たらスターになれるよ!」と言われたことを信じ、中国に行こうと思いました。それまで日本で俳優として大きな成功を納めていなかった私は、その一縷の可能性に賭けました。

 中国の成長に勝機を見出されたのですか。

中国へ渡った当時は目先の目標を追いかけていたので、現在のような中国の変化を予測していた訳ではありませんし、20年以上中国で活動できると当時は思いもしませんでした。

 大連に来たのは何回目ですか?大連の印象を教えてください。

3回目です。以前はドラマ《追夢》という作品で訪れました。大連は海に近く、海に囲まれた日本とつながる部分を感じます。日本人も多く馴染みやすく溶け込みやすい空間だと感じます。私も好きな街です。海鮮も美味しいです。来たいと思っていたので来られて嬉しいです。』

 大連泡盛祭りについて教えてください。

北京で毎年開催している泡盛など沖縄のお酒をPRするイベントで、今回大連で初めて開催されました。私はイメージキャラクターを務めさせていただいています。大連で期間中は泡盛、リキュール、ウイスキーなど様々な沖縄のお酒が購入できますのでぜひお試しください。 関連記事はP12に掲載

 中国にきてから活動は順調でしたか。

とんでもありません。当時は金銭的に余裕もなく、まず「明日をどう生きるか」という問題に向き合っていました。最低1年半程度は北京に滞在して、最低限の中国語を習得して、万が一役者としてやっていけなかった場合は中国語教師になろうと思っていたくらいです。
北京に来て半年後に、知り合いのカメラマンに突然「今撮影している」という電話を受け、タクシーの飛び乗り現地に向かいました。そこで役をもらい、また次回作を紹介してもらうことで、少しずつ作品に出演する機会が増えていきました。河北省の零下20度の環境での撮影も経験しましたし、悪役を演じることが多かったです。ギャラは多くなく、有名でもなかったけれど、仕事が続くことで北京での生活を継続できることが嬉しかったです。
紆余曲折を経て、2008年8月からバラエティー番組『天天向上』にレギュラー出演するなどあり、皆さんに知っていただけるようになりました。

 中国と日本で俳優活動をするに当たって違いはありますか。

作品に出演するプロセスの違いです。中国は人と人の繋がりが重要です。日本ではプロダクション・事務所に所属していないと作品に出演することができませんが、中国ではフリーでも、人間関係を構築していれば関係者から直接連絡をもらうことができます。そのスタイルは私の性格にも合っていたし、会社を通さずに直接仕事のやりとりができることが面白いと感じました。

 ご自分のSNSを精力的に更新されていますが、その理由は。

SNSを活用する時代だからです。時代の流れに追いつき、ツールをいかに活用し認知を増やせるかどうかを重要視しています。中国は広いので、いくら既に中国で知名度があると言ってもまだまだ広げる余地があると思います。

 自分で製作する「自媒体」と、テレビや映画作品の違いはありますか。

役を演じる時のように沢山の役者さんやスタッフの方と共同して作り上げるもので、自分が中心になってというわけにはいきません。しかし個人の動画では自分がメインになって自由に楽しく自分のペースでやっています。
個人のSNSについては自分でやっているものであり、趣味に近いものです。グルメも、お笑いも根底にあるのは「自分で楽しみ、人に楽しんでもらうこと。」自分自身も楽しみながら人を喜ばせたいという気持ちで、自由に撮影をしています。

 中国のスピーディーな変化の中で新しいことに挑戦するモチベーションは。

常に新しいことを探して挑戦しているという感覚はあまり無いんです。目の前の事を真剣に取り組んでいると新しいアイディアが自ずと浮かんでくるので、それを形にした結果が新しいことであると。なのでモチベーションを高めるというより、いろんな物事に妥協せず、とことん打ち込んでいることが大切かなと思います。ファンになり、応援してくれる方に応える為にも、「私」という人間を活用していきたいと思っています。

 今挑戦されている取り組みはありますか。

日本からも中国作品を作りたいという話があります。それを私に直接連絡してもらえるのが嬉しいし、自分自身が中国側のプラットフォームなのだという喜びを感じます。作品制作に深く関われるチャンスなので楽しみにしています。

 ビジネスやエンターテインメントで中国で頑張っていこうと考えている日本人は増えていますか。

今中国市場に注目している人は増えており、中国のSNSアカウントを立ち上げている日本人も増えています。日本の若い俳優さんからのコラボレーション依頼もありますし、中国で活躍の場を広げたいタレントが増えているのを肌身で感じています。

 どういった人が中国でチャンスを掴めるのでしょうか。

自ら動く人でしょう。縁は偶然やってくるものではなく、自分で掴みにいくものだと思っています。私自身もそうして自分から動いてチャンスを掴んできた結果、今があります。なのでそのような情熱的な人に対しては、応援したい気持ちがあります。中国で活動したいという志を持つ人が自分を頼ってもらえることは嬉しいことです。
そして、すぐに諦めないこと。長く挑戦すればチャンスはある。継続は力なりです。

 近年の日本での活動について教えてください。

2015年オスカープロモーションと契約し、2016年から2020年まで日本で活動をしました。『警視庁・捜査一課長』や『徹子の部屋』など様々な作品に出演させていただき、これまで長期間日本での俳優活動をしたことがなかった自分にとっては、掛け替えのない経験でした。
当然ですが、日本で日本語を演じる時は周囲のスタッフ全員が日本語を聞き取れます。日本語を聞き取れない中国で日本語で演じるのと、日本で日本語を演じるのとは重圧が全く違いました。

 俳優を続けていて嬉しかったエピソードはありますか。

中国に渡る前の当時23歳のある作品の撮影の時に、泉ピン子さんに楽屋で怒られたことがあります。私が現場で調子に乗っていたことに関する2時間の大説教でしたが、わざわざ気にかけて怒ってくださることをありがたく思いました。24年たった最近『ドクターX』で再び共演する機会がありました。最初ものすごく緊張していたのですが、開口一番「中国で大変だったのね!よく頑張ったね!」と言われたんです。私のドキュメンタリーを観てくださったらしく、20数年前のことは忘れて褒めてくださったんです。最後まで当時のことは言いだせませんでしたが(笑)、まさに長く続けているからこその出来事でした。

 今後の活動の拠点は。

今は中国へ戻ってきましたが、拠点を固定している訳ではありません。今後もどうなるか分からないし、目の前を一生懸命、フットワーク軽くやっていきたいと思います。中国のみなさんが必要としてくださる限りは中国で活動していきたい思いはあります。

 目標にしていることは。

日本と中国の協力作品を成就させることです。日本のドラマや映画はコミックを実写化したものが多く、日本のサブカルチャーに興味のある中国人が多く興味を持つ題材が多いです。私が出演した西野七瀬さん主演のドラマ「ホットママ」は中国作品の日本版リメイク作品で、ビリビリ動画とアマゾンで公開されました。
今後も協力作品は増えていくと思いますし、アジアのエンターテインメントの広さを知っていただきたいんです。日中の皆さんに広く興味を持っていただきたいと思います。私もそこに負けないように、自分のやりたいことをやりながら活動を続けていきたいです。