Whenever大連

大連ライフをもっと楽しくする日本語メディア

billibilli
インタビュー
2022年8月8日

ベテランに聞く「中国ビジネスと私」

【プロフィール】

日中関係学会 副会長

国吉 澄夫 氏

広島県出身。京都大学法学部を卒業後、株式会社東芝に入社。1977年に東芝ロンドン事務所駐在となり、1979年から中国業務に従事。1994年、江蘇省無錫市の現地法人へ副総経理として赴任し、1996年からは本社中国室長として全社の中国事業を統括。2005年に東芝を退職し、九州大学アジア総合政策センター教授や中村学園大学流通科学部特任教授などを歴任。専門は「中国ビジネス」「中国経済と産業」「中国電子産業」。2019年から現職。

中国が改革開放へ舵を切ると、日本企業の中国進出は加速し、中国と日本のビジネス交流も活発になった。ここでは、東芝で1979年から中国業務に関わり、現地法人の副総経理や本社中国室長などを歴任した国吉澄夫さんに中国ビジネスについて聞いた。

大連での事業、中国室長時代

大連でも色々なことがありました。まずは苦い思い出をご紹介しましょう。1983年頃、大連に白黒ブラウン管プラントを供与する交渉が始まりましたが、価格が折り合わず、交渉が長引きました。交渉相手は、大連顕象管廠(現在の大顕集団)でした。私は営業の窓口として交渉する立場で、度々大連へ出張していました。価格について、相手は「高い、高い」と言い、こちらは「高くない、合理的だ」と応じる。こんな状態で、膠着状態がしばらく続きました。

 

そんなある日、宿泊先のホテルに魏富海市長(当時は副市長)の訪問を受けました。その時、ビジネスの在り方について、魏市長から当時としては極めて開明的な発言がありました。魏市長は「売手と買手双方の利益が相い反するのは当たり前である、しかし、双方が高い、安いと主張し合うだけではなく、ビジネスを成功させるためにはお互いに歩み寄ることが大切ではないか」といった主旨のことを持ち前の温厚な口調で仰いました。当時のビジネス交渉は一方的であり、「安く買う」「高く売る」といった口角泡を飛ばすぶつかり合いの状況が当たり前でした。魏市長の言葉を受け、私は見積もりの見直しを行いました。当初、私は日本の工場見積もりを100パーセント信用していましたが、工場責任者と交渉した結果、工場からの見積もりは高めに設定されていることが分かり、見積もり修正によって、一気に契約へとたどり着きました。白黒ブラウン管の技術は、当時としては新しい技術ではありませんでしたが、重要な基礎技術が含まれており、結果として大連の発展に貢献できたのではと考えています。

 

薄熙来市長との思い出もご紹介します。薄市長の時代、東芝はパソコン製造販売で大連に進出して欲しいと強い要請を受けていました。しかし、担当事業部はお断りしていました。ノート・パソコンは、世界中で販売できる商材ですので、国際物流網のある拠点で生産した方が有利です。当時の中国で、世界へ向けて発送しやすい航空拠点とは一に上海であり、東芝も既に上海でパソコンの拠点を設けていましたので、大連に生産拠点を置くことは困難でした。ですが、大連市からの要請が非常に強かったので、当時の西室泰三社長と一緒に大連へお断りの訪問に伺いました。幸い、西室社長から薄市長に上述の理由を説明すると、すぐに理解してくださり、それからは庁舎のベランダへ出て、色々な話を交わしました。薄市長からすれば、社長自らがお断りのために大連を訪問してくれたことを高く評価されたものと思います。お蔭で、大連と東芝の友誼はつながりました。その時の私の印象として、薄市長は頭の回転が早く、人心掌握にも長けた方だな、と感じました。

 

魏市長、薄市長、李永金市長、夏徳仁市長の時代には、役員と一緒に大連市長諮問委員会にも出席しておりました。私が中国室長の頃、東芝は大連に7つの現地法人を進出させていましたが、最も古いのは東芝大連社(東芝大連有限公司)でした。東芝大連社は複数の事業部をまたがる会社であり、そんな会社を中国室から統括できたのも良い経験でした。

 

大連での経験から教訓を導き出すとすれば、それは「中国ビジネスでは、地域の政府との信頼関係が大切」ということです。そのための手段として、人脈の構築や納税、社会貢献も大切です。経営層は、節税に意識が向きがちかもしれませんが、長い目で見れば、納税の方が利点は大きいかもしれません。当時の東芝は、大連にとって大きな納税者でしたので、大連市側からは大事にしていただいた印象が残っています。また、社会貢献としては、大連大学に図書室を寄贈し、2つの希望小学校も建設しました。希望小学校を訪ねた時の元気な子供たちの姿は、忘れられません。

無錫での副総経理時代

無錫で合弁会社の副総経理に就任する前、1978年から83年まで、東芝は「江南無線電廠」(江蘇省無錫市)へカラーテレビ用IC回路組立の生産ラインを供与していました。私も、現地への長期出張を繰り返していました。当時は、ココム(COCOM、Coordinating Committee for Multilateral Export Controls、対共産圏輸出統制委員会)がまだ存在しており、ココムアイテムの処理には苦労させられました。ココムが存在したため、資本主義圏から共産主義圏へのハイテク物資の輸出が制限されていたのです。

 

そして、1993年に合弁交渉が始まり、1994年に合弁会社「華芝半導体有限公司」が設立され、私はそのまま副総経理として赴任し、生産管理と販売を統括しました。合弁会社を設立するまでは、困難な交渉が続きましたが、設立されると、新たな困難に直面しました。つまり、合弁会社双方の親会社との関係が難しくなったのです。合弁会社は、中国側の親会社とは、中国市場で競合してしまいます。一方、東芝本社からすれば、合弁会社は純粋な自社の子会社ではありませんので、技術や部品を出し渋るわけです。最終的には、合弁を解消し、東芝の独資となりました。

 

また、半導体ならではかもしれませんが、販売ネットワークの構築も難しい点でした。買い手は、できるだけ安く買いたいわけですから、節税できるに越したことはありません。つまり、増値税を回避する方法や、輸出免税や輸入免税を受ける方法などを熟知して販売する必要が出てきます。ですが、このあたりの状況は、日本人では把握しきれません。日本人だけで対応しようとしても、上手くできないでしょう。現地の人に上手く動いてもらう必要があります。中国現地の知恵をうまく使いつつ、コンプライアンスも守らなくてはいけません。ここにオペレーションの難しさがありました。

中国業務に関わるまで

改革開放が始まったことで、中国は部品を国産化し、国産部品で組み立てて完成品まで作るという方向へ進みましたが、そのため、中国は数多くのプラントを海外から導入することになります。もちろん東芝へも、プラント案件が中国から寄せられてきていました。そんなある時、プラント案件で中国と交渉していた担当役員がロンドンへやって来ました。会食中もひたすら中国の話でした。他のロンドン駐在員は、中国に関心を示しませんでしたが、私だけは興味を持って聞いていました。それから担当役員帰国後に「国吉を中国担当に」という噂が本社側から聞こえてきましたが、本気にはしていませんでした。

 

ですが、その噂は本当だったようで、私は1979年にロンドンから帰任し、中国担当となりました。その年には初訪中も果たし、上海と北京、天津を巡りました。営業担当として、家電製品の組み立てラインを中国の工場に売り込むのが私の担当でした。

今後の展望と日中関係学会

今日の世界の動向をみると、ボーダレスへ向かいつつあった世界が、ブロック化へ逆行していると感じます。もちろん「コロナ禍」もありますが、各国が「自国のため」といった意識が強くなり、モノやヒトの交流も減っていることを懸念します。その意味では、グローバルサプライチェーンの復活を期待します。そのためには平和が必須ですし、アメリカのトランプ政権時代に否定されてしまったグローバルサプライチェーンの復活を、強く望みます。

 

また、日中関係学会は、その名の通り、日中関係を考える開かれた集まりです。「学会」と名前がついていますが、学者だけではなく、実務家など様々な分野の方が参加しています。

 

日中関係を含む国際関係においては、国民感情が情勢に影響され変化することもあります。しかしいかなる時期においても国民同士が友好交流を重ねながら、良い関係を作り続けることが大切だと私は常々思っています。